現在、一時帰国のためにカタールのドーハ空港にてトランジットの飛行機待ちをしています(4時間)。
旅の前半4か月を終えての一時帰国です。
旅を通じて内面的にどのような変化が起きたかについて書きたいと思います。
旅に出る前までは、私は今回の旅を通じて、より仏教的な態度を身につけて生きていくことになるだろうなと思っていました。というか、そういうふうにする意志を持っていました。
しかし、実際は全く異なっていました。
今回の前半の旅を通して、私はかなり快楽主義者になりました。
以前(旅の途中まで)は、「身心を癒し、そしてそれに伴い生ずる『身心に苦のない平穏かつ楽なコンディション』を作り出す」ことを常に心掛けて生活していました。
ストレッチをしたり、瞑想したり、サウナに行ったりなどして身体を癒したりして・・・。
この考えに基づく生き方こそが仏教的に正しい生き方だと信じて・・・。
しかし今は、「積極的に楽しいことや肉体的快楽を生み出すことをして、『身心が楽しくて気持ちいいコンディション』を作り出す」ことを心掛けています。
シンプルにいうと「身心に(たくさん)快楽を生じさせる」という感じでしょうか
人と楽しいひとときを過ごしたり、人と腹を抱えて笑うような話をしたり、お酒を飲んだり、その他諸々。
今でも前者の考え、生き方を仏教的観点から正しいと思ってはいますが、今は後者を優先しています。
仏教的に考えれば、今の私が優先してしまっている後者の考えに沿った生き方は、欲に囚われることになり、苦をたくさん生み出すことにつながります。
また仏教的には、欲に囚われずに、今ここにある自分に集中して生きるのが余計な妄想や苦などを生まずに生きる、よい生き方と考えます。
それを分かっていますが、今は、
「苦が少ない日々」より、「楽しい、そして気持ちいいことがたくさんある日々」を作り出したい。それを目指して、日々頑張り、そして得られたものを糧にまた頑張りたいです。
「癒し」志向だったのが、「快楽」志向になりました。
今の私には身心にたくさん快楽が生じる日々の方が、元気、且つベストな状態でやっていけます。
西ヨーロッパで旅した国の中で、ドイツとスペイン、イタリアを比較していろいろ考えて、また各地でいろいろな人と出会っていくうちに、
「人生は楽しまなきゃ損。どうせ死ぬんだから、楽しいことをたくさんしよう」
「気持ちいいことが楽しいことだよなぁ」
って強く思うようになり、このような価値観の変化に至りました。
ブログには細かく書いていきませんでしたが、スペインやイタリアではかなりディープなそして刺激的な世界を見させてもらいました。、
随分、変質しました。
たぶん年老いて、体力が落ちたら、元の考え、生き方を目指すだろうと思います。
今は無理に自分を仏教的に理想的な生き方に束縛せずに、自分の身心が欲するものを志向する生き方をしていきたいと思っています。
7月15日に南米に向けて出発します。
7−8か月の間中南米を回る予定ですが、どう変質するかなぁ?
- 2008/07/04(金) 05:25:54|
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前回のブログに関係する話です。
繰り返しになりますが、
私たち人間は普段、自分の外側に客観的な世界があると考えていて、自分が死んでも世界はそのまま続くと思っています。しかしその世界とは、個人個人の認識に基づいて作りだされるもの、つまり意識の中で作られるものです。そして、その世界像は言葉によって構成されます。
この世界は人間の脳では認識しきれない量の物質、物体、現象などがあってそれらが複雑に絡み合ってできています。
例えばある1本の木についてですが、もし正確に脳が認識しようとしたら、それは
「地面に根を張り、1本の幹とXX本の枝とXX枚もの葉っぱなどからできている物体」
みたいな認識になるはずです。
しかしそういうふうに世界を認識していたら脳がパンクするから、簡略化して捉えるようにして、そういう特色をもった物体を「木」と呼ぶことになったわけだと思います。
私に言わせてもらえば、言葉とは、脳が正確に認識しきれない複雑な世界を効率的に認識できるようにするためのルール・合意事項です。つまり、脳に都合のいい「世界の区切り・整理機能」の道具と言えます。
また、当然ですが、他者とのコミュニケーションの道具でもあります。
言葉は脳にとっても、コミュニケーションにおいても、大変便利で大切なものです。
ですが、世界を脳に都合のいいように言葉を使って認識するということは、脳がパンクしないよう対象を区切ったり簡略化して捉えていくことでもあるので、言葉によって表わされる世界は必然的に本来の世界の姿とはズレが生じることになります。
この言葉の抱えるジレンマをふまえつつ、うまく言葉を使いこなしていって表現力豊かな人間になりたいです。そして言葉の束縛性を超越する自由な世界像を作り上げて生きていきたいって常に思っています。
言葉以外に世界像を作り上げる手段はないと思いますし、言葉を使わなければ社会で生きていけないですし・・・。
デーモン小暮が自分の年齢を「XX億光年○○歳」みたいな感じで表現したり、しょこたんが「ギガXXX」とか言っているのをみて、面白い発想だなって思いました。
どちらも言葉を使った表現ですが、自由な発想で、私には言葉のジレンマを感じさせないと思えます。
ゆうこりんが「コリン星出身」とか言ったしているのも面白いと思うんですが、これはちょっと、また別次元の発想なのかなぁ、よくわからない。
最後に愚痴です。
言葉というもので、私が嫌いなのは、「世間」とか「天」などの言葉のように、本来存在していないものをあたかも存在しているかのようにでっちあげて、人間を縛ることができるという特性です。
「世間」は人間が生み出した幻想的な共同体で、人間を縛るものだと思います。
協調性を大事にしつつも、こういうものにはあまり束縛されずに生きていきたいです。
- 2008/07/04(金) 05:24:33|
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旅のなかで、頻繁に「意識」について考えていました。
どんなふうに考えていたかを今日はちょっと書かせてもらおうと思います。
私が考えている意識の主な特性は下記の2つです。
ー囲環境や自己に生じる感覚や自己そのものを認識することを可能にし、またそれらに注意を向けたりすることを可能にする。
⊆詑里鮖たず、具体的にどこに存在しているのか分からないけど、「はたらき」として確実に存在している。
私は、自分という概念や認識は、「身体」と「身体の一部位である『脳』の働きの結果生ずる意識」から成ると考えています。
つまり
「身体」+「意識」=自分
というふうに捉えています。
意識は身体の中にあるものなのですが、意識を身体から外して、身体と相対するものとして捉えています。
身体は「今ここにある自分」しか生きられません。それに対して、意識は「今ここにある自分」を離れて、過去にも未来にも行かせることができるし、宇宙や他人へも行かせることができます。
意識は困るくらい自由奔放です。
何かを経験するとき、経験していくのは身体ですが、身体が経験したことを認識したり、評価づけしたり、感情を認識するのは意識です。
このことから意識があるからこそ、生きているという感覚を持てると言えると考えています。
意識がなければ、経験は、身体が経験するだけで終わりになります。つまり経験を認識することも評価づけすることも不可能となります。意識がなければ、人生は身体が次から次へと様々なことを経験していくだけとなり、寂しいものになることと思います。
実体を持っていなくて、はたらきにすぎないものなのに、生きている感覚を与えるこの意識というものは、私に言わせてもらえば化け物です。
さらにこの意識という化け物は、ネガティブな感情を抱かないようにするといったように、自らで自らをコントロールすることも可能です。
不思議です。
私たち人間は普段、自分の外側に客観的な世界があると考えていて、自分が死んでも世界はそのまま続くと思っています。しかしその世界とは、個人個人の認識に基づいて作りだされるもの、つまり意識の中で作られるものです。
世界像を作り上げる脳のシステムや意識の働くメカニズムについて、私は人によってそんなに大きな差異があるとは思っていません。ただ、その人の経験とその捉え方や嗜好が脳や意識のどの部分を重点的に使うかを左右し、そして個々の世界像に大きな影響を与えると思います。
私がこのブログのタイトルを「LA VIDA ES BONITA」としているのは、きれいな世界像が作られるよう自分の意識を洗脳(自己洗脳とでも言うのでしょうか?)しているからです。あまり好き嫌いを持たずに、また何事も肯定的に取れるよう心掛けて旅しています。
旅という自由な時間の中で、ほぼ毎日、この自由奔放すぎる意識について思いを巡らせています。
もっともっと意識について、自己について勉強していきたいと思っています。
- 2008/07/04(金) 05:22:41|
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